私の祈祷においては、
原因を突き詰めることに、あまり重きを置きません。
何が原因だったのか、どこに問題があったのか。
人はつい、過去を振り返り、理由を探そうとします。
けれど私は、いま目の前にある「現実」そのものに意識を向け、
そこに祈りを注ぐことを選んでいます。
「なぜそうなったのか」を追いかけなくても、
いま起こっている事実に対して、祈りを送ることで、
状況は確かに変わっていくからです。
それは、祈りの力が「原因」や「因縁」を超えていくものだから。
ご先祖の影響や、過去の出来事にとらわれずとも、
現実は祈りによって、エネルギーの質を変えていける。
これまで長い祈祷生活の中で、私はその確信を深めてきました。
たとえ、どれほど啓蒙的な知識があり、
歴史や宗教、占術の中に「正解」があったとしても。
人間は、人として生きるうえで、自我を優先してしまうものです。
どんな理屈も、「こうあるべき」という理念も、
実際の行動や心の反応にそのまま反映されるとは限りません。
私たちの脳が「自分は唯一の存在だ」と認識している限り、
どこかで自分を守ろうとするし、どこかで正しさを主張したくなる。
それが人間という存在なのだと思います。
だからこそ、私はいつも思います。
私の祈りは、人間の持つ不完全さ、そのままの姿を受け入れたうえで、
現実を少しでもやわらげ、癒し、変化させていくためのものだと。
争いのない世界。愛し合える社会。
そんな「花園のような地球」は、いずれ訪れてくれるのでしょうか。
いまの私には、正直わかりません。
けれど、それでも今日、
ここに在る誰かの苦しみが、ほんの少し軽くなるなら。
明日を生きる力が、ほんの少しでも芽生えるなら。
そのために私は、今日も祈ります。
因果を超えて、ただ「今」に祈りを届ける。
それが、私にできる、たしかな祈りのかたちです。